125. 田代全廣家文書 (たしろまさひろけもんじょ)
 田代家文書は、多数の中から44点が厳選された。田代家は同家の系図によれば、源義経の家来田代信綱の末裔(まつえい)という。江戸時代から大間見村田代と呼ぶ所に住して、百姓の傍ら村医・獣医を兼ねていた。
 文書は、寛永19年(1642)大飢饉の免税覚えからあって、多彩である。とりわけ郡上藩宝暦騒動関係では、1,300両余の郡中割り資金の徴収法や使途の明細、及び農民が節度ある行動をとるよう具体的に条文化して指示した帳本(ちょうもと)の達し文書などは重要てある。騒動に係わった人は、尾張藩の御典医を勤めたという田代一養の孫田代三郎左衛門綱慧(つなえ)である。用意周到で筆算に堪能(たんのう)な彼は、郡中農民の頼みに押し切られて帳本の役割を勤めたが、つねに陰のリーダー格で通し、表舞台に出ることはなかった。宝暦8年(1758)4月箱訴の後、7月〜年末の間評定所(ひょうじょうしょ)の厳しい吟味が繰り返されたが、三郎左衛門の名は隠しとおされた。
 しかし、彼は江戸へ下っていち早く裁判の様子を探り、一件落着後も同地にとどまり、遺体の処置や出牢病人の看護など種々な難問を処理をした。関の宿所に帰る、とすべてを清算して越中へにげた。金森浪人の復讐(ふくしゅう)を恐れたからである。遺言(ゆいごん) により、騒動の詳しい話は関係文書と共に、大切に子孫に伝えられている。