76. 応徳寺雅楽 (おうとくじががく)
 応徳寺雅楽は、江戸時代の末、真宗大谷派郡中寺坊の触頭(ふれがしら)で寺跡御坊格中坪安養寺(あんにょうじ)の楽人(がくにん)から伝授され、7、8人で編成したといわれている。
 現在使用の太鼓には「明治十三年(1880)十一月新調」の銘がある。これは、中坪の安養寺が明治3年に焼けて、同15年現在地に再建し、その落慶法要のために新調されたものとみられる。しかし大正8年八幡町大火で同寺が再び焼け、楽人も絶えかけたので、応徳寺楽人増田綾太郎らが新たに安養寺の14人に教授した。しかしこの楽人衆も7、8年前に絶えたため、安養寺仏事の奏楽は「応徳寺雅楽」だけを頼りとするようになった。応徳寺雅楽は編成以来、同一組の西宝寺(さいほうじ)の報恩講にも奏楽し、旧山田村地区の寺院の仏事や、村葬・招魂祭(しょうこんさい)などの楽はすべて執行した。
 戦後は、八幡町那比(なび)福常寺(ふくじょうじ)門徒の25人に伝授し、昭和60年再度伝授した。御母衣ダムや九頭竜ダムの建設で廃寺となる寺の法要に招かれて奏楽し、白鳥町牛道光雲寺(こううんじ)の門徒にも伝授した。
 農事の合い間などによく練習を積み、名古屋・羽島方面の伝統的演技の修得にも努め、常に高度な技術を保って郡中雅楽界に重きをなしてきた。6人を一管とする左方楽(さほうがく)である。