50. 明建神社本殿 (みょうけんじんじゃほんでん)
 承久3年(1221)東氏が下総国(しもうさのくに)から山田ノ庄(やまだのしょう)へ入部(にゅうぶ)のときに、千葉家の氏神である妙見菩薩を勧請(かんじょう)して、剣の阿千葉の南の地に社を建てて東家の氏神とした。後に居城を牧の志ノ脇山(しのわきやま)へ移したときに神社も牧へ移した。また、文明3年(1471)、第9代城主東常縁(とうのつねより)より連歌師飯尾宗祇(いのおそうぎ)に「古今伝授」の講義を終えた後の儀式は、同年8月15日この神社の神前で行われたのである。
 天文10年(1541)東氏は、篠脇城(しのわきじょう)から八幡赤谷山城(あかだにさんじょう)へ移ったが、氏神妙見宮はそのまま牧に残しておかれ、東氏の後継者遠藤氏の崇敬(すうけい)をうけていた。
 この神社は、江戸時代までは妙見宮(みょうけんぐう)と書き、本尊は妙見菩薩であったが、明治維新のとき、神仏分離令が出されたので、祭神を国常立尊(くにとこたちのみこと)とし、神社名も明建神社と改められた。ただし祭神の変更は表向きのことで、本尊が妙見菩薩であることは現在も変わりはない。
 この神社は、明治6年(1873)郷社(ごうしゃ)となり、昭和20年終戦後は、岐阜県神社庁の銀弊社となった。
 本殿は、神明流造(しんめいながれづくり)りで間口5.6m(向拝付(ごはいつき))、奥行3.3m、高さ5.5mあり、享保7年(1722)6月再建の棟札(むなふだ)がある。