16. 和鏡七鈴五獣鏡 (わきょうしちれいごじゅうきょう) |
昭和47年11月、大和村史編集委員が徳永多賀神社の調査を実施したとき、同神社の本殿内で発見。翌年名古屋大学文学部考古学教室大参義一(おおみぎいち)氏の鑑定を受けた。 この鏡は全体の4分の3を残す白銅製の七鈴鏡である。鏡面は光沢のある灰色で、文様面は外側から鋸歯文帯(きょしもんたい)、連続三角形文帯、偽名帯があり、その内側に小さな5個の乳(ち)と、くずれて形状不明の五獣を配している。 面径は11.4cmで、低い鈕(ちゅう)の径は1.9cmである。鏡面の反りはごくわずかである。鈴は1.5〜1.7cmで鈴子(れいし)は小石を入れている。振ると音がする。この鏡は6世紀中ごろのもので七鈴鏡は岐阜県では唯一のものである。 また多賀神社の所在地薬師平(やくしだいら)からは、縄文時代から弥生時代の出土品もあり、昭和15,16年ころ、この地に青年学校が建築されるまで、3基くらいの土盛りがあったという。この土盛りからは工事中多量の須恵器(すえき)が出土し、直刀(ちょくとう)も2本出土したとも伝えている。 さらに昭和40年ころには、少し下段西寄りの「シンヅカ」と呼ばれている所から須恵器(すえき)などが出土し、その一部とみられる直刀破片3片、提瓶(ていべい)1点が残っている。種々の観点から、この薬師平には8基くらいの古墳もしくは古墳らしきものが存在し、須恵器などの状況から6世紀中ごろには最初の古墳が築造されたものと考えられる。そしてこの鈴鏡を持った古墳の主は、この地域の盟主的存在であったと考えられ、6世紀中葉すでに鈴鏡を持ち得た在地豪族(ごうぞく)がいたことを示している。 同じ6世紀中葉(ちゅうよう)に建造された対岸の福田古墳の主と鈴鏡の主とのかかわりや、中央勢力の進出時期と長良川水系をめぐる諸問題など、当地方古代史解明の鍵ともなる重要な鈴鏡である。 |