7. 篠脇城跡 (しのわきじょうせき)
城の位置
 国道156号線徳永地内から東に折れて、徳永〜寒水(かのみず)線を約2km入った地帯が、永く東(とう)氏の本拠地となった所で、近年開設された「古今伝授の里フィールドミュージアム」の中心部である。
 ここの「東氏記念館・和歌文学館・篠脇山荘」などの前方で、栗巣川の左岸にある全山樹木におおわれている美しい山が、標高570mの志ノ脇山(しのわきやま)で、この山頂に「篠脇城跡」がある。

城の構え
 山頂に約1000uの本丸跡、約1500uの二の丸跡、約1000uの腰くるわ跡があり、この3段3500uの城郭(じょうかく)を囲んで放射線状に30本余の縦堀(たてぼり)が掘られている。この縦堀は、その形が臼の目のようになっているので、通称「臼の目堀」といわれている。天文9年(1540)越前の朝倉勢が篠脇城へ来襲した時、城主常慶(つねよし)はこの独特の縦堀を利用し、寡勢(かぜい)を以てよく敵の大軍を迎撃し敗退させたのである。

城の歴史
 鎌倉時代、下総国(しもうさのくに)の名門として聞こえた千葉氏の一族である東胤行(たねゆき)は、承久の乱(1221)の戦功によって、本領香取郡東ノ庄(とうのしょう)33郷のほかに、美濃国山田ノ庄(現在の大和町、白鳥町・八幡町の一部)を加領され、阿千葉(あちば)(現在大和町剣地内)に居城を構えて領内の統治に当たった。これが、郡上東氏の始まりである。  阿千葉には、3代約90年間在城したが、鎌倉末期第4代氏村(うじむら)の時、さらに規模の大きいこの篠脇山城へ移った。その後、天文10年(1541)八幡赤谷山城(あかだにさんじょう)へ移るまでここで山田ノ庄を治めた。
 東氏は、武人でありながら代々歌道のほまれが高く、特に第九代の城主常縁(つねより)は高名な歌人であるとともに、また、すぐれた古典学者として知られ、京師文人の間に重きをなしていた。応仁2年(1418)、美濃国の守護代斎藤妙椿(さいとうみょうちん)が篠脇城を急襲して奪取したが、常縁から10首の歌を妙椿に贈って城を返されたといううるわしい話が伝えられている。

城の文化的意義
 以上述べたように、篠脇城は、中世文学に深いかかわりを持ち、しかも450余年を経た現在、往年の姿をほとんど失うことなく保存されていることは、文化史的にもきわめて意義深いものと考えられる。